2023年7月12日付
夏草が茂る諏訪市四賀の桑原城址に立てば、風に揺れる木々のざわめきが、戦国乱世の鬨の声のように聞こえてくる。諏訪盆地の夏には、7月4日という、もう一つの敗戦記念日がある▼480年前、信玄は信濃攻略の突破口として、諏訪家分家の高遠頼継と手を結び、諏訪に侵攻した。迎え撃つのは諏訪惣領家の諏訪頼重。武田襲来の知らせは6月24日夕、上原城の頼重に届く▼「守矢頼真書留」によれば、兵馬は武田が2万2000、諏訪は1000弱。情報戦でも劣る頼重は上原城に火をかけ、支城の桑原城に退く。7月2日だった。武田勢が桑原城に迫った3日、夕方に大雨が降った。頼重が山の様子を見に行き不在になると、「大将が逃げた」と家来の人心が離れ、城に残る武士は20人にまで減った▼武田側の記録に「四日桑原城攻 頼重を生捕」とある。1542(天文11)年7月4日。これが諏訪の敗戦記念日。甲府に送られた頼重は「おのずから枯れ果てにけり草の葉の主あらばこそまたもむすばめ」の辞世の句とともに切腹する。享年27歳▼諏訪を分割統治した高遠・武田連合だが、全土掌握に動いた高遠を信玄が駆逐。頼重の娘の諏訪御料人を側室とし、後継者の勝頼を授かった。その武田も長篠の合戦で織田・徳川に敗れて滅亡する。おごれる者は久しからず。かと思えば再び栄えることも。桑原城址の土塁と夏草が今に語り掛けている。