疎開時の手紙60通 中川村教委へ寄贈

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中川村で行った往復書簡の贈呈式(前列右から4人目が井上佐喜子さん)

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、戦火を逃れて東京世田谷から旧上伊那郡上片桐村(現下伊那郡松川町上片桐)の瑞応寺へ疎開した井上佐喜子さん(79)=東京都世田谷区=が、当時家族と交わした書簡の現物を中川村教育委員会へ贈った。戦時下とあって、離れて暮らす寂しさや悲しみを言葉にすることなく、気丈に振る舞う親子の姿を浮き彫りにした71年前の手紙。世田谷の疎開児童は中川村にも分散して生活した経過があり、今でも地域間交流を続ける縁で今回の寄贈が実現した。

書簡は封書とはがき約60通で、井上さんが疎開時に祖父母、両親、姉妹に宛てた手紙とその返信、先に疎開した兄と家族が交わした手紙も含まれている。井上さんが結婚した57年前に「手紙はあなたが持っていた方がいい」と母の数子さんから託された。

当時在籍した二子玉川国民学校(現世田谷区二子玉川小学校)から瑞応寺と片桐村(現中川村片桐)の旧小和田農業会館に疎開した児童は計81人。井上さんは当時2年生で寺の寮に宿泊し、旧上片桐国民学校(現松川北小学校)へ通った。疎開は45年5月から11月まで続いた。

両親への手紙には「佐喜子はお手紙が一番楽しみです。こちらでも毎日警戒警報がきます。夜も時々空襲がきます」「(勤労で私たちが作った)ナシが食べられるようになりました」など日々の暮らしぶりをつづったほか、終戦直後には「戦争が終わったといって力をゆるめません。みんなと力を合わせて一生懸命やりとげます」と決意を書いた。手紙には毎回家族を気遣う言葉が添えられている。

一方、母親は「毎日元気に泣かないで良い子になっていますか。佐喜子が元気がないと日本が負けてしまいますよ」などと娘を励ましている。

手紙は「亡くなった時に棺へ入れてもらう予定」(井上さん)だったが、内容が貴重な資料でもあることに気付いた妹の原佳子さん(73)が姉から借りて、知人で世田谷と中川の交流事務局を務める二子玉川郷土史会の鈴木昌二会長に託し、ワープロで清書して冊子にした。中川村内で18日夜に開いた交流会では、来村した井上さんらが、同村の下平達朗教育長に手紙と冊子を手渡した。手紙のファイルには鈴木さんが知人を介して入手した瑞応寺学寮の寮日誌も含まれている。

井上さんは「疎開当初は不安だったが、初登校で体がぶつかった地元の女の子が言った『かんにゃ(ごめん)』の言葉に気持ちがほぐれて寂しさが晴れた。疎開先では良くしてもらった」と振り返り、手紙は「文が幼くて恥ずかしい面もあるが、何かの役に立つのなら使ってほしい」と話した。疎開後戻った東京で焼け野原や親を失った大勢の子どもたちを見た経験もあり、「どんな理由であれ、戦争は絶対にだめ」とも訴えた。

下平教育長は「手紙からは戦時下の様子はもちろん、手紙の大事さや家族のあり方までも学ぶことができる。今後学校等での教育に活用したい」と感謝した。

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