信玄も御柱祭見物? 八ケ岳総合博物館の古文書

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諏訪神社をあつく信仰して神社祭礼の再興にも関わった戦国武将の武田信玄。御柱祭でも桟敷席から騎馬や曳行(えいこう)の行列を眺め、祭りを楽しんでいた-。そんな光景が浮かび上がる江戸時代の古文書が、茅野市八ケ岳総合博物館の企画展「御柱祭」で初公開されている。同館の柳川英司学芸員は「御柱祭と信玄を結びつける貴重な史料」と位置づけている。

古文書は、17世紀末から18世紀初頭に書かれたとみられる。高部村(現茅野市高部)で大祝家の家臣を務めた家に伝えられた文書で、史料名は「片倉村と桟敷場争論に付書留」。御柱祭での桟敷席の場所取りが、村同士のもめ事にまで発展した経緯が記録されている。

同博物館によると、争論の現場は高部村の参道沿いの「馬場上」。ここに片倉村(現伊那市高遠町片倉)の人たちが御柱祭の村の桟敷場として立て札を立て、くいを打っておいたが、その札やくいが抜かれて捨てられていた。それは高部村の仕業だ、などと神社に訴えた。

高部村は、こう反論する。「片倉村が桟敷場だと主張している場所は、かつて武田信玄や保科正之が桟敷場としていた場所で、この場所は畑にもせず、また桟敷場にもしない場所である」

村同士の言い分が平行線をたどったことから、裁定は高遠、高島の両藩の話し合いにゆだねられた。その結果、高部村の主張が通り、高遠藩からは「この件は穏便に…」との意向が伝えられたという。

信玄は、古文書が書かれた時代から100年前の武将で、実際に信玄が桟敷に陣取ったかどうかは分からない。が、信玄と並べられた保科正之は、この古文書が記された時代に生きた高遠ゆかりの名君。高部村が主張した「武田信玄と保科正之の桟敷」が高遠藩に受け入れられたことは、この言い分を認めるだけの背景があったとみられ、興味深いところだ。

柳川学芸員は「これまで史料がなく注目されなかった武田信玄と御柱祭との関係について、研究課題を投げ掛ける史料になる」と話している。

「信玄、保科正之の桟敷場があった」とされる「馬場上」。高部区には字名で「馬場」「馬場高道下」が残る。県道岡谷茅野線沿いの相本社から前宮寄りの道路沿いの周辺で、確かに眺めのいい場所だ。現在も近くに整備された「ばんばの池公園」があり、「馬場」の名前が伝えられている。

企画展は6月19日まで。

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