富士見町の戦没者後世に 名取さんが調査

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富士見町出身の戦没者の記録をまとめ分析をする名取さん

富士見町原の茶屋在住の元小学校長名取昇一さん(90)は、日中戦争(1937年~)、第2次世界大戦で犠牲となった町内出身兵士の戦死地と没年を調べ、まとめる作業に取り組んでいる。現存の戦没者台帳や遺族会名簿など資料に記載がない人も多く、町内の墓地を訪ね歩いて墓標を一つ一つ調べ、7年がかりで情報を集めた。名取さんは「亡くなった状況を統計的にまとめたら当時の戦況や国の戦略の実態が分かってきた」と話している。

■きっかけは町史の編さん

調査のきっかけは、町史編さんに携わった際、戦争に関わる台帳や名簿を手にしたことだった。小学3年の時、出征する叔父やいとこ、青年団の先輩らを送り出した記憶がよみがえり、再び故郷の土を踏めなかった人の多さを改めて実感した。「国に命を捧げて散った英霊たちへせめてもの報いになれば」と、2008年に調査を始めた。

対象は兵士と軍属、軍の直接統率下にあった技術者、事務官などで、37~47年(終戦の2年後)の間、陸海軍ごとに年次別の戦没者数、戦没地を調べて表にした。町出身の兵士がどこへ派兵され、何人亡くなったのかをみて、「当時の政府や軍が情勢をどのようにとらえて、兵士をどう送り出したかをつかみたい」(名取さん)という。

把握できた戦没者数は431人。うち約60人は名取さんが家々の墓標から集めた。内訳は14~19歳の志願期17人、20~23歳の現役期94人、予備・後備・補充の兵役期は24~26歳が最も多く113人、27~50歳以上は173人。年齢不明は34人。戦時中の犠牲者は363人、終戦後も65人だった。

このうち日中戦争で亡くなった33人について、名取さんは「日本軍が電撃的に兵を進め、快勝したとして小学生、青年団、婦人会などは紅白のちょうちん行列で西山地区を回り、喜びに沸いた。でも実際には町内出身者だけでこんなにも犠牲になっていた」と指摘。「日本全体ならかなりの数。激戦であったことが分かる」という。

また、大戦終盤では陸軍兵士が日本近海で多く亡くなっており、「日本が制海権、制空権を失って身動き取れなくなっていたことが分かる」とみる。

■調べるほどに無謀さを実感

名取さんは「調べれば調べるほど、いかに無謀な戦争をしたかが見えてきた」と話す。自身は満州の師範学校在学中に終戦を迎えたが、多くの親類、友人、知人を戦争で失ったという。

今月は南京陥落(37年、13日)、対米英開戦(41年、8日)と戦史上、節目の日を迎える中、「犠牲となった皆の思いをくみ、記録をしっかりと後世に残したい」と資料に向き合っている。

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