小津監督と無藝荘 蓼科日記抄で解説

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「蓼科日記抄」を手に小津監督と無藝荘の関係を語る北原さん

日本映画界の巨匠、小津安二郎監督(1903~63年)が茅野市北山の蓼科高原で過ごした日々を振り返る「蓼科・夏の小津会」が24日、小津監督が仕事や接待に使用した蓼科の山荘「無藝荘」で開かれ、県内外から約20人が参加した。無藝荘火代番の北原克彦さん(70)=原村=が「『蓼科日記抄』を読む」と題して講演し、小津監督ら映画人が記した「蓼科日記」をひも解きながら、小津監督と無藝荘の関係を紹介した。

小津監督は「東京物語」翌年の1954年8月、脚本家野田高梧(1893~1968年)に誘われて初めて蓼科を訪れた。以来、63年12月に亡くなるまで、蓼科で野田とともに「早春」の構想をまとめ、「彼岸花」を除く映画6本のシナリオを書いた。片倉家の山荘「無藝荘」を借り、土地を買い、自らの山荘を建てる準備も進めていた。

北原さんは、かつて東京で企画制作会社を経営。98年に茅野市で始まった「小津安二郎記念・蓼 科高原映画祭」の企画を持ち込み、小津生誕110年の2013年に刊行された「蓼科日記抄」の刊行会事務局長を務めた。その過程で明らかになった小津、野田両氏の散歩コース「小津の散歩道」も掘り起こしている。

北原さんは蓼科日記の記述をたどりながら、小津監督と片倉山荘(現在の無藝荘)の出合いや契約に至る経緯を説明。57年11月に「大根役者(後の『浮草』)」の脚本完成を祝う宴会が地元関係者を招いて無藝荘で開かれたことに触れ、「小津さん野田さんが蓼科で脚本を書いているのをまわりの人々が応援し、小津さんも地元の人を呼んで歓を尽くした。その場所が無藝荘だった」と解説した。

夏の小津会は7月16日にも無藝荘で開く。父徳郎さんが小津監督に片倉山荘を紹介し、家族ぐるみの付き合いがあった同市湯川の柳澤徳一さん(84)を講師に迎え、文人墨客に愛された蓼科の歴史に思いをはせる。

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