キキョウ家紋の小さな祠 明智光秀に関わりか

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「明智光秀公縁の祠」とインターネット上の地図案内に載る祠。光秀との関係は分からないものの、来訪者は増している=長野県茅野市高部

長野県の茅野市神長官守矢史料館(同市高部)近くの畑の隅に、キキョウの花に見える家紋入りの小さな祠がある。桔梗紋は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、明智光秀が用いた家紋で、近くの諏訪市神宮寺の法華寺に滞在していた織田信長の、光秀に対する言動が、のちの「本能寺の変」を生んだとも伝えられる。本当に光秀に関わる祠なのか―。2020年のNHK大河ドラマに光秀が上げられることもあってか、祠の注目度が増している。

ネット地図には「縁の祠」と記載

祠は西沢川に沿って通る市道の脇にある。高さは約70センチで、平らな石の上に置かれている。周囲に看板もなく、地元の人たちでさえほとんど知らない存在。ところが、関係者によると、いつの間にかこの祠がインターネット上の地図案内(グーグルマップ)に「明智光秀公縁の祠」と載った。

近くには建築家、藤森照信さんが手掛けた個性的な建造物が複数あることから、「藤森ファン」が、周辺を訪ねた折りに祠を見学するケースが増えているという。

畑は近くの藤森夏男さん(66)宅が所有する。藤森さんによると、1892(明治25)年生まれの祖父が祠のいわれを調べたが、分からなかった。

ただ祠は元々、現在地から南側に約30メートル離れた畑の中に、高さ1メートルほどの大きな自然石と並ぶようにあった。30年ほど前、この大きな自然石は父親の知り合いに、庭石として譲り、その大きな自然石を移す際、祠は現在地に移された。

その後、だれが置いたか分からないが、おもちゃの小判が付いた縁起物が置かれていたのを見たことはあるという。

「本能寺の変」の原因は諏訪で?

光秀といえば、1582(天正10)年の本能寺の変(京都)が有名。諸説あるものの、地元の「続 高部の文化財」には、祠の写真が載り「明智光秀ゆかりの社」として紹介されている。由来には触れられていないが、本能寺の変のいきさつについてこう記している。

「信長は…法華寺に泊まって十七日間逗留したという。…信長は暇で困るので『光秀お前は向こうの大将、おれがこっちの大将』といって、宮川をはさんで戦争ごっこをやったところ、信長の方が負けてしまったので『このきんか頭め』と法華寺の欄干に光秀の頭を打ち付け、それが直接の原因になって五十日もたたないうちに本能寺でやられてしまった」とする。「きんか頭」は、はげ頭の意という。

さらに「―文化財」はこう続ける。「光秀が来たことも確かで、今の新井のあたりに光秀砦というのを作って暫くいたという」とする。

茅野市八ケ岳総合博物館は「(祠と)光秀との関係は全く分からない」とする。ほかに、1734(享保19)年の「諏訪藩主手元絵図」には、茅野市塚原の大型店裏に「明地屋敷」とあるが、こちらも光秀との関連性は定かでないという。

法華寺に近く、キキョウの花に見える家紋入りの祠。果たして光秀と関係があるのか、ないのか。どんな「縁の祠」なのか。

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