「諏訪国」設置から1300年

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今年は「諏訪国」の設置から1300年。古代は独特の文化圏を形成する諏訪をひもとく鍵とされ、悠久の歴史ロマンを感じさせる

奈良時代に約10年間だけ存在した「諏訪国」が、信濃国から分国され、新たに設置されてから、今年は1300年の節目を迎える。諏訪国に関する研究は少なく、その範囲や国府(役所)の位置、設置や廃止された理由は判然としない。御柱祭に関する最も古い記録もこの頃で、諏訪大社の創立縁起などが書かれた室町時代の「諏方大明神画詞」には、平安初期の桓武天皇(在位781~806年)の時代に「寅・申の干支に当社造営あり」とある。研究者は「諏訪の古代を再構築できれば、現在の諏訪の姿、今に続く諏訪人気質の基層が見えてくるはずだ」と話している。

■榎垣外官衙遺跡 郡の役所が定説

「続日本紀」の記述には、奈良時代初期の721年に諏訪国が設置され、再び信濃国に併合したとある。研究者の間では、諏訪国の範囲が「諏訪を含む二郡以上」だったことや、岡谷市長地一帯の「榎垣外官衙遺跡」に郡の役所が置かれていたことが、定説となっている。

奈良時代から平安時代前半の古代国家は、豪族に支配されていた地方を律令制によって組み込み、中央集権国家を形成していった時代。「官衙」とは、国家の行政拠点となる国や郡の役所とそれが置かれた地区を指す。

榎垣外官衙遺跡は岡谷市東北部の横河川扇状地にある。広さは南北1.5キロ、東西1.3キロ。1971年に同市が調査に乗り出し、82年には長地保育園建設に伴う調査で桁行十間以上(約40メートル)と思われる掘立柱建物址を発見した。

その後、長地小学校近くのスクモ塚地区で21棟の掘立柱建物址が見つかり、長い建物に囲まれた正庁(役人が儀式や政務を行う建物)の存在を確認。調査報告書は「当時すでに郡衙(郡の役所)としてあったこの地が国衙として代用された可能性が大きい」とする。

■設置や廃止理由 範囲などに諸説

長野県史によると、諏訪国の設置理由には▽蝦夷征伐の中継基地説▽諏訪地方が独特の文化圏を形成していた特殊地域説▽広大な信濃国を分離した統治困難説―などがある。範囲についても諏訪・伊那両郡に筑摩郡と安曇野郡を含む説や、諏訪・伊那・筑摩3郡に佐久や小県を含むとする説などさまざまだ。

廃止された理由にも諸説があり、ある研究者は「信濃国と諏訪国がまとまった方が物事がうまく進むようになった」と指摘する。県史通史編1巻の「信濃国と諏訪国」は、明治初期に長野県と筑摩県が分立していたことや、戦後まで続いた移庁・分権論に触れながら、これらの仮説を紹介している。

榎垣外官衙遺跡の発掘調査に携わった岡谷市岡谷美術考古館の山田武文さん(64)は「たとえ10年間でも諏訪国が設置され、奈良・平安時代の諏訪の中心地が岡谷市の榎垣外官衙遺跡であったことを多くの人に知ってほしい。諏訪の古代を再構築できれば、現在そして未来の諏訪の姿が浮かび上がってくる」と語り、古代史研究の魅力と重要性を指摘した。

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