旧陸軍の登戸研究所 調査研究の成果報告

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シンポジウムで、研究成果を報告した木下健蔵さん(右)ら発表者

旧陸軍の秘密機関「登戸研究所」が太平洋戦争末期に伊那谷などに疎開した当時の地域の実態に資料と証言で迫るシンポジウムが23日、駒ケ根市赤穂公民館で開かれた。約100人が参加し、地元の登戸研究所調査研究会と同市立博物館がこれまでの調査研究の成果を報告。関係者の証言を基に、研究所を通して上伊那地方で終戦間際に数千人規模の民兵組織が計画されたとする発表もあった。

同研究会の共同代表で市立博物館専門研究員の木下健蔵さんが、「証言から明らかとなった当時の本土決戦準備の現実」と題して報告した。

木下さんは、研究所の疎開に携わったという技師の北沢隆次氏が「研究所には長野軍管区司令部から通知があり、予想される上陸敵軍に対し、軍人以外の在郷男子が各郷土で組織を作り、抵抗する指示が示されたと思う」とする証言を書簡で残したと説明。

証言では、通知が研究所に来たのを昭和20年8月13日だったと記憶していることや、翌14日には中沢村と伊那村(いずれも現駒ケ根市)の役場に行って村長と面会し、国民学校の生徒から60歳くらいの健康な男子の人数を至急調査するように依頼して、数千人規模になると見込んだことも触れられていると示した。

木下さんは、軍が最高司令部を松代町(現長野市)に移そうとした「松代大本営計画」などにも言及。「関東に侵攻する計画を立てた米軍や、日本軍も最終決戦の場所を長野県と想定した。そのため長野県には多くの軍施設が疎開し、登戸研究所もその一つだった」と考察した。

その上で、「本土決戦になっていれば、この地が沖縄のようになっていた可能性もある」と指摘した。

この日は、当時研究所で使われていて飯島町で保存される机から、ワクチンの効果向上にも使われる塩化アルミニウムが検出されたことについて、調べている信州大学名誉教授の井上直人さんが「細菌戦のためワクチンを量産研究していたことが示唆される」と報告。「科学者は生物兵器を作る一方、自分を守るすべも考えていたのでは」と続けた。

小木曽伸一共同代表は市立博物館で見つかった終戦前後の行政資料を基に、戦争完遂を盾にした国家統制から急転し、それを消し去ろうとした当時の時代背景を説明した。

同市の赤穂高校平和ゼミナールの生徒たちは、登戸研究所に関わった女性たちからその記憶を聞き取り、生の声を記録資料にする取り組みを報告。「私たちは戦争を体験した皆さんから話を聞くことのできる最後の世代。当時の気持ちを次の世代へとつながなければ」などと発表した。

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