文中に記載されている年齢は、新聞掲載時のものです。




上野憲一さん(山梨県小淵沢町)絵にすべての情熱
 「仕事は面白かったし、仕事を通して自己表現できた。でも、本当の自分を考えたとき、絵を描くことに全エネルギーを使いたくなった」。上野憲一さん(五一)は九八年七月、大手企業の人材開発部長から画家に転身。アトリエのある山梨県小淵沢町と川崎市の自宅を行き来しながら、既に個展を五、六回開いた
 三十代までは、典型的な”企業戦士”だった。人事を担当し、帰宅はいつも午前零時すぎ。それでも、休日にはテニスやスケッチを楽しんでいた。
 そんな趣味の一つでしかなかった絵の世界にのめり込むきっかけとなったのは四十歳の時、小淵沢に小さな山小屋を建てたこと。もともと自然が好きだった。そこで見た情景に感動し、それからは休日ごとに通って自然の中を歩き回り、絵を描く。
 退社を考え始めたのは、五十歳を迎える二、三年前。好きな言葉は「人生二度なし」。不完全燃焼のまま後悔したくなかった。
 安定収入が無くなることには、不安もあった。妻の真理さん(四八)は「『このまま定年までいてくれれば…』の思いもあった。でも、一緒に住んでいれば本気と分かる。二、三年よく話し合ったので、割と自然に納得できた」と振り返る。「うちは何回かスッカラカンになりました。歯の治療代を値切ったこともあります」と真理さんは笑う。
 「組織に属することはいい面もある。大きな舞台に立てるし、会社には育ててもらったという感謝の気持ちでいっぱい。でも、最後には個と会社との関係に戻る。それが早いか遅いかだけ」と、穏やかな口調で話す上野さんだ。

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渡辺一さん、勢津子さん夫妻(富士見町)菊中心の複合農業
 東京のコンピューター会社に二十数年間勤務し、システム開発の仕事をしていた渡辺一さん(47)が脱サラをして、妻の勢津子さん(45)と二人で、農業を始めたのは一九九八年四月。四十五歳の時だった。富士見町高森にIターンしての再出発。二年間は技術面でのノウハウのなさ、設備不足などで思うように収益が上がらず現実の厳しさを体験しながらも、二十五アールのほ場で菊栽培をメーンに複合農業に取り組んでいる。「自分に合った形を模索している段階」という。
 「WATANABEグリーンファーム」と名付けた農地や家屋は、すべてが夫婦の共有名義。夢は、都会と産地である田舎を結ぶ懸け橋となり、都会から多くの人が訪れる農場をつくること。昨年十一月には産直野菜の購入者や援農者を招き収穫祭を開いた。「都会とのネットワークがあるうちに夢を実現したい」と話す。
 一さんが脱サラを考え始めたのは、過労で健康面の不安を感じたことや母親の介護がきっかけで、福祉と農園を組み合わせた仕事をやってみようと思ったことも一因という。
 九五年夏には原村の八ケ岳中央農業実践大学校の新規就農者研修に、夫婦で参加した。山が見える所に住みたいという夫婦の夢もあり、九六年に同町に民家と田畑を購入。土日だけ東京から来て行う「週末農業」を二年間続け、九八年四月、退職して本格的に農業をスタートさせた。
 いざ始めると思わぬ問題に直面。あてにしていた制度資金は、保証人が三人必要なことが分かり利用を断念。最初に購入した土地は湿地で菊栽培に適さなかった。最初の年は、営農センターや地元農家の指導もあった。昨年からは夫婦だけの作業。幸い援農ボランティアなどの応援で、少しずつ軌道に乗ってきた。
 一さんは「新規就農者は最低でも二年間分の生活費の準備がないとだめ。行政はもっと支援策や適切な情報提供を考えてほしい」と訴える。勢津子さんは「現実は厳しいけれど夢に近付けたい」と話している。

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滋野博義さん(伊那市西春近) みはらしファーム・そばの家名人亭支配人
 伊那市に昨年六月グランドオープンした農業公園「みはらしファーム」。その一角にあるそばの家名人亭で、七人のスタッフの中心として働く。
 肩書は支配人。店の顔として渉外役を務めるほか、管理を総括し、電話で舞い込む予約に応じたりもする。今では「めったになくなった」が、手が足りなければ、自慢の腕を振るってそば打ちもする。
 一昨年秋までは市内の建材会社の取締役総務部長。三十年以上勤務し、経理を担当するベテランのビジネスマンだった。定年を気にすることなく、希望すればそのまま会社に勤められる立場でもあった。
 転身のきっかけは、会社勤務の傍ら、三十年近くも楽しみとして続けてきたそば打ち。所属するそば打ち名人の会を通じ、店を運営する市から「委託するのでやってくれないか」と声がかかった。
 当時は会社を支える責任ある立場。迷いもした。が、「人生の最後にやるだけのことをやってみたい」と踏み切った。当時六十一歳。決して早くはない転職は大好きなそばの仕事だったことが背中を押した。
 オープン当初は必死だった。「そば屋の経験がない」のに加え、新規開店で「前例を参考にできず、いわばレールのない仕事」。無我夢中の日々だった。
 店開きして半年余。規則正しい生活は、不規則な生活に変わった。仕事は立ち通し。帰宅して夕食を食べれば「そのままごろりの生活」になった。体力的にはきつくなった。
 ただ、気持ちは充実している。毎日の人との触れ合い、「おいしかったよ」と言い残して帰る来店者…。何よりも大好きな仕事をしている満足感が大きい。
 だからこの道を選んで良かったと思っている。「人に例えれば、やっと首がすわってハイハイができたところ。しっかり独り立ちしたい」。笑顔がのぞいた。

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森田好孝さん(塩尻市大門)焼き鳥店の店主
 塩尻市大門一番町の焼き鳥店「大吉塩尻店」の店主・森田好孝さん(41)は、四年前に木曽郡上松町役場を退職し、同店を開いた。いつか独立し、自分の力で店を持ちたい−という夢があった森田さん。しかし公務員から畑違いの焼き鳥店を開くには準備が必要で、同系列の店を開く友人から誘れた時も「期が熟すまでは」と、すぐにこたえられなかった。
 町役場で退職直前まで勤務していたのは、新設の町営ホテル。経理や営業など幅広い仕事をこなした。役場と比べ格段に仕事量が多い上、独立採算性のため企業感覚も求められた。「利益を出すために残業代を削るなど経済的にも厳しく、以前からの夢だった自分の店の開店を本格的に考えるようになった。ホテル勤務の経験で必要な知識が学べたし、年齢的にも期が熟したと感じ、思い切って踏み出した」と振り返る。
 開店まで友人の店で食材の買い付けや営業、仕込みなど一連の仕事を学び、大阪府のチェーン本部で二カ月半の研修を積んだ。「研修より開店後の方が忙しくて。開店に不安もあったが、思わぬ出足にびっくりしたくらい」。
 開店五年目を迎え、念願の店を切り盛りする毎日に「とても充実している」と笑顔を見せる。「お客さんが少ない日もあるし、休みも取れないが、一つの店を自分で経営するやりがいは何にも変え難い」。腕一本で築く店に、新しい生きがいをつかんだ。
 今後の目標は、後に続く店主を育てていくこと。現在も出店希望の若者を受け入れ、研修に力を添えている。「目標に向かって打ち込む若者の力や集中力はすごい。自分の店を持つことで、さらに高い目標に羽ばたけると思うんです。夢に向かう若手の成長に手助けができれば」と笑顔を浮かべた。

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杉山斉二さん(原村上里)手作りまんじゅう喫茶
 「収入は数十分の一に減りましたが、生きる楽しさは何十倍にもなりました」。原村上里の林の中で手作りまんじゅうの喫茶店「パンさんのお茶」を営む杉山斉二さん(58)。田舎暮らしへのあこがれから経理マンのキャリアを捨て、情報誌を頼りに何の縁も無い原村に一昨年十月、千葉県松戸市から一家四人で移り住んだ。昨春に店をオープン。豊かな自然と地元客らとの交流を満喫している。
 親友のレントゲン技師が「田舎で暮らしたい」と漏らした一言が引き金となった。青森で高校時代までを過ごした経験が直感的に田舎の生活を求めた。首都圏の中堅企業で経理畑一筋の生活が一転。仕事の合間を見つけ関東甲信越の物件を探した。
 反対していた家族も強い決意を理解。別会社で経理を担当していた妻、悦子さんも退職。大卒後に外国などで福祉の仕事をしていた長男、浩一さん、長女、法子さんも大学を中退して斉二さんの計画に参加。一家そろってのIターンが始まった。
 原村を選んだ理由は、自然が残る標高一、二〇〇メートル付近に手ごろな喫茶店の物件があったため。見知らぬ土地での生計を心配するまんじゅう製造業の親せきの勧めで、生活の糧にと法子さんが修業。手作りまんじゅうを“売り”とした店の構想もできた。最初の二カ月間は会社の引き継ぎなど夫婦は毎日、電車で東京通い。オープン準備は浩一さんと法子さんが中心に進めた。
 無農薬小麦を使った無添加の昔ながらのまんじゅう。製造は一日平均で百個が限度。くるみやよもぎなど季節限定の商品も作り、地元の常連客も増え遠方からの注文に発送する。「地元の母親グループと知り合い、そば粉を分けてもらいました」と悦子さん。
 パンは牧羊士の意味。自然の中に融合する理想に原村は合っていた。「生活は厳しいが自信はつきつつあります。今、妻と二人で『暮らしを楽しむ研究会』を作っているんです」。

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飯島岱さん(箕輪町上古田)舞台プロデューサー
 家に遊びに来た近所のお年寄りが、酔った勢いで「やい」「小僧」と口走る。最初のうちは、何が何だか解せなかったが、このごろになってやっと転居してきた上古田では、昔から人を呼ぶ時に「やい」、自分より年下の人には「小僧」と言っていることが分かり、驚きと同時に新鮮な感動を覚えた。
 成城大学文芸学部芸術学科で演劇学を専攻し、一九七五年に東京都目黒区大橋で海外アーチストの招致やコンサートのプロデュース、ステージ事業の企画制作や構成と演出、海外文化交流事業などを行うテス・カルチャーセンターを設立。代表者として広告会社の電通や博報堂などの舞台にかかわる仕事を数多く手掛けてきた。
 「あのころ(東京時代)は、常に企画で勝たねばならないという意識が強かった」と振り返る。体がぼろぼろになるまで仕事を続け、心筋梗塞(こうそく)になったのを契機に、会社は創業時からかかわってきた腹心の社員らに任せ、長野五輪の文化催事で行き来した長野県へ移り住むことを決意した。
 地域の人々が親切で空気がよく、体調はすっかり良くなった。仕事は東京時代の延長線上にあるが、収入が当時の三分の一以下になった。とはいえ、「金銭には代え難いものがある」。仕事はパソコンとファクスで大体のことは事足りるが、大きな時には高速バスで東京と箕輪を日帰りで行き来することもあった。
 現在、舞台と演出構成などは年間四本程度に抑え、国際的なものを二本くらいのペースで手掛けているが、バレエとモダンダンス、オーケストラ、合唱プロデュースと古典芸能に力を入れている。「妻と一人息子もこの地を気に入り、私はここに骨を埋めるつもりです」ときっぱり。

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武藤雅晃さん(岡谷市中村)喜多方ラーメン店
 岡谷市中村で喜多方ラーメンの店「むっちゃん」を経営する武藤雅晃さん(55)。銀行員、会社員、精密業社長を経験し、ラーメン屋を開いて四年。「皆さんに喜ばれる味をつくり、愛される店にしたい」と努力を惜しまない。
 新潟県村松町出身。高校卒業後、新潟相互銀行(当時)に入行。六八年に同行諏訪支店へ転勤したところ奥さんの恵子さんと出会い、結婚。それを機会に、「転勤の多い銀行勤務では将来的に子供がかわいそう」との気持ちもあり、七一年に退職。岡谷市内の鋳造工場で働き始めた。
 営業畑一筋で歩んだ銀行時代の人脈を生かし、仕事も順調に進んでいた七八年、「自分で精密業をやりたい」と決意。「いずれ武藤の城を建てるぞ」という思いから社名を「藤城精工」とし、借り工場で事業をスタートさせた。
 OA機器の部品を取り扱う同社は、景気の上昇ムードにも乗り「とんとん拍子で」発展。九〇年には長地中村に土地を買い自社工場を新築した。ところがバブル崩壊。仕事量が激減し今後を考えたところ「やっぱり飲食店。世代を超えて人気のあるラーメン屋だ」と再び決心。国道142号バイパス湖北トンネルに近い立地条件のよさもあり、九六年、工場を辞めて社名も「藤城」とし、新たにラーメン屋を始めた。
 「ここまで順調に来られたのは人脈と運のおかげ」と武藤さん。「『一国一城の主になる』という夢を実現できて幸せ。人のできないことをやった満足感はある」。ただ、それを陰で支えた恵子さんへの感謝の気持ちも忘れない。「自分は好きでやってきたが女房には苦労させた。一生頭が上がらないよ」と照れ笑いを浮かべた。恵子さんと、恵子さんの両親を支え、きょうも麺をゆでる。

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吉永修一さん、順子さん夫妻(木曽福島町)喫茶店経営
 「空気がきれいなところで過ごしたい。ここなら自分の生き方に満足できる」と吉永修一さん(59)。妻の順子さん(55)と昨年十一月に木曽福島町に喫茶店を開店した。愛知県東海市の大手製鉄会社の管理職だった吉永さんは「技術畑で情報処理に追われる忙しい毎日」に疑問を感じて九一年に退職。同県で居酒屋経営に転身した。それまで、接客はまったく経験がなかったという。
 機械相手から人相手という、まったく違う世界に入ることに戸惑いはなかった。「リスクは伴うが、それ以上に良い面があった。特に、人と出会え、話すことに喜びを見いだした」という。また、企業のように収益を第一に考えないことで「気が楽になった」。順子さんに料理を教わりながら、経営を軌道に乗せた。
 木曽へは「自然と人間性」にひかれて移ってきたという。テレビで町が紹介されたのを見て、愛知からも近く、出身の北海道を感じさせる自然に一目惚れし、町中に店を構えた。喫茶店は一カ月かけて手作りで内装を整えた。「家庭のような店」を目指して、メニューも思案中だ。
 「会社勤めと違って余裕がある。だから新しいことに取り組める。これからもいろいろなことに挑戦していきたい」と吉永さん。やりたいことはたくさんあるといい、「二〇〇〇年からが本格的なスタート。町の人が気軽に憩えるようなスペースにしたい」と語った。

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内田正典さん、三橋晋さん(原村)回路設計会社
 雪をかぶった八ケ岳がすぐ近くに迫る場所に、回路設計会社「プライムシステムズ」を二人で立ち上げて一年がたった。内田正典さん(35)=茅野市若葉台=と三橋晋さん(35)=原村中新田。オフィスはそれぞれの自宅。従業員はほかに一人だけという小さな会社だ。
 二人とも大学卒業後、大手メーカーに勤めた。横浜市の社宅住まいだった内田さんは「都会を離れたい」思いから妻の実家のある茅野へ。大学時代に山岳部員だった三橋さんは「毎日山を見ていたい」と、東京から松本へ。人材派遣会社の勤務先で知り合い、八カ月で会社を発足させた。
 LSI(大規模集積回路)設計の専門家。アナログを内田さん、デジタルを三橋さんが担当し、大手メーカーなどからの注文に従って設計するのが主な仕事。「デザインハウスから脱却、メーカーになりたい」と、自社製品の立ち上げも具体化させている。
 「こういう商売は電気と電話線とパソコンがあればどこでもできる。都会にいる必要はない」と言い切る。情報伝達手段の多くは電子メールやホームページ。必要があれば車で首都圏や関西方面へ出掛ける。「八ケ岳山ろくは高速道路が近くとても便利な場所」と二人は口をそろえる。
 一昨年九月から住む三橋さんの家は、新聞が配達されずテレビも満足に映らない場所だが不自由は感じない。それどころか「サラリーマン時代より物理的にも気持ちの上でも余裕ができました。創造力もついたと思いますよ。庭や畑づくりにもチャレンジしたい」。
 内田さんも「友人からはよく独立したね、と言われるけれど、リストラや通勤の苦痛もあるサラリーマンに比べ幸せです」。ゴルフ場やスキー場に近い立地も好きで「都会よりすべての点でいい。今は東京などに二日といるのがいやになりました」。  ハイテクという花形産業の一端を担う二人は、意外にも田舎暮らしがすっかり気に入っている。

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石川誠さん(伊那市西春近)野菜栽培
 都会での公務員生活から、伊那谷で農業に汗を流す生活に身を転じて四年。自然の中で野菜を相手にする生活を続けてきた。「一昨年も昨年も反省ばかり。まだまだこれからです」と話す。
 東京・練馬の出身。大学を卒業後、希望する道の一つだった公務員の職に就いた。六年間にわたって楽しく仕事をした。そのころわき上がったのが「自分で何か作る仕事をやってみたい」という思い。学生時代からの夢でもあった。
 新たに志したのは、以前から興味があった農業の道だった。「住むのにいいし、農作物が良く育つ」と信州を新たな出発点に選び、駒ケ根市の農園で一年間の研修。伊那市に住まいと農地を借りて移り、「消毒を最低限にし、土のバランスを見ながら」という有機的な農業を始めた。
 最初の年は三十アールの農地でスイカなどの栽培をした。東京の実家は自営業で、研修前は「土とは無縁の生活」だった。だからやることすべてが苦労の連続。それでも収穫と出荷にこぎ着けた。二年目、三年目は「味がわかって面白い」というトマトを中心に野菜を栽培し、農地を七十アールにまで増やした。
 農業が最も多忙を極めるのは、収穫がピークとなる夏。もちろん転職してきた農家も例外ではない。最盛期は夜明けとともに畑に出た。妻(31)と一緒に夜更けまで出荷作業の日もあった。肉体的にはきついが、「自分のやったことがダイレクトに結果として返ってくる。それがやりがいでもある」。年ごとに着実に伸びる収穫を目にしながら、農業を楽しんでいる。
 今は農閑期に入り、ゆっくり骨休めができる。それでも「今年は何をどう作ろうか」。そんな考えが頭から離れない。「まだ胸を張って良かったとは言えない。でも、五年後には良かったと言えるようになりたい」。そう思っている。

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笠原明夫さん(塩尻市広丘)ちゃんこ鍋料理
 二十三年間務めた会社を辞め一九九五年九月から、念願の相撲茶屋・笠の花のオーナーに転身した。初代若ノ花にあこがれた小学生時代から相撲への思いは深く、愛知学院大学では相撲部に入部。西日本学生選手権団体戦での優勝も経験した。社会人になっても現役は続け、国体にも出場していたが、仕事が忙しくなってから十数年というもの、相撲から遠ざかっていた。
 しかし、営業活動に奔走する間も、「相撲のことは頭から離れなかった」という。転職のきっかけも、「他人に拘束されたままの人生で良いのか」の気持ちと、相撲だった。
 「今の自分にとって、相撲とのかかわりを現実の形にできるのは、ちゃんこ鍋だけ」という自覚と、営業マン時代に経験した経営のノウハウなどが後押しとなって、不安も迷いも無く進路を変更した。
 JR広丘駅近くに店舗を構えた時は「夢がかなった」と実感。だが、生活を守るためだけでなく、いろいろな人たちとの交流や、相撲を教える、後継者を育成する−など、店を核としてさまざまな可能性が芽生えたことで、「達成して終わりでは無い。夢はまだ続いている」と話す。
 この言葉通り、昨年九月に広丘原新田に店舗を移転新築したのに合わせ、店内に本物の土俵を設置。交流のある大相撲二十山部屋(親方・元大関北天佑)の力士らを迎え、土俵開きも行った。店にいながらにして、地域の少年たちに相撲の技術はもとより、昨今忘れられがちな礼儀を教え、この地域からの“関取”誕生に期待をかける。
 「夢を持つのが難しい世の中で、多くの皆さんの助けを借りながら手にした店だけに、まだまだ夢は追い続けていきたい」と、あふれる可能性に向け、目ははるか前を見すえている。

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鈴木正巳さん(高遠町西高遠)家具作り
 高遠町西高遠の鈴木正巳さん(41)は一九九四年四月、十一年間勤めた大手電気会社を辞め、神奈川県から同町に移り住んだ。放送局用カメラの電気設計から手作り家具の注文販売への転身だ。自宅は喫茶店を兼ねた家具のショールーム。妻の恭子さん(40)が紅茶と手作り菓子で迎えてくれる。
 以前の仕事を辞めたのは「義務でやるには限界がある」と感じたから。想像力を発揮できる面白さもあったが、職業として突き詰めるほど好きにはなれず、「やりたくない仕事を上司になって部下に語るのが嫌だった」と職場を去った。
 地方で暮らしてみたい−。そんな願いもあり、恭子さんが幼い時に住んでいた高遠へ。最初は趣味の木工で生活していく自信はなかった。平成不況も深刻さを増していたころだ。しかし希望の職が見つからず、一年半後、家具作りをやろうと決めた。
 町内に小さな工場を借り、新築した家の建具や収納家具から作り始めた。技術は主に米国の専門誌から独学で習得。やがて友人の紹介や口コミで仕事先が広がっていった。
 食器棚から収納家具まで一式を求める客もいれば、いす一脚という人も。最近の注文はキッチンキャビネットが多いという。家具のデザインはごくスタンダード。これまで注文が途切れることなく順調に進んでいる。
 しかし、楽しさや充実感を手に入れた一方で収入は以前の三分の一に。納期に間に合わせるため休めない日が続くこともある。それでも「今は残業しても嫌じゃない。前の仕事と違って不毛な会議も無いし」と、いたって楽しそうだ。
 手作り家具ゆえに販売価格はどうしても高い。お客も比較的高所得の人たちだ。今後の夢は「平均的な収入の人でもちょっと背伸びをすれば買えるような価格にすること」という。

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石慧さん(岡谷市銀座)中国料理店
 中国陝西省西安市出身の石慧さん(38)は、六年間にわたる地元大学での教師生活を辞め、一九九二年に単身来日。県内の専門学校で日本語や商業実務を学び、九九年、岡谷市銀座に貿易と中華料理店を営む「サクラ商事」を立ち上げた。
 中国陝西工商学院商学部で貿易と経済学を学んだ後、同学院の教師に。しかし「大学の閉鎖的な環境がいやになり、社会に飛び出したくなった」ことから一念発起、知人を頼って長野へ。計五年間、専門学校に通い、ここで初めて日本語を習い、商業実務専門士の資格を取得した。
 九七年に塩尻市の会社に入社。主に日中間の貿易業務を担当したが、九九年に退社を決意。同社で中国製造の建築金物の生産、開発、輸入、販売などに携わった経験や、日本や中国の顧客との間で培った人間関係を元手に同年三月、会社経営をスタートさせた。
 サクラ商事の事業内容は、建築金具や日用品などの輸出入・販売を行う貿易部と、食料品、冷凍加工食品の輸入販売や飲食店「さくらんぼ味の旅」を経営する飲食部の二部門。飲食店ではもともと料理好きの石さんが厨房に立ち、自慢の焼きギョウザや中国各地の特色ある料理に腕を振るっている。
 まだまだ経営は始まったばかり。港から遠く離れた長野県で貿易を営むには大きなハンディがあるが、「事業には人脈が一番大事。困ったら助けてくれる人もいる」と、この地から離れられない。「今は中国に戻りたい気持ちはない。人生はいろいろ体験するのが楽しい。岡谷でこのまま続けて、絶好のチャンスをものにしていきたい」と、たんのうな日本語で決意を話した。岡谷市山下町の自宅で、中国から呼んだ奥さんと二人で暮らす。四月には初めての子供が誕生する予定で、責任も重くなる。

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藤田長幸さん(駒ヶ根市下平)結婚相談業
 昨年六月、駒ケ根市に結婚相談業の会社を設立。九月にJR駒ケ根駅前のビル内に事務所を移し、本格的に業務を始めた。肩書は「代表取締役社長」だが、社員はいない。今のところは、孤軍奮闘の日々だ。
 秋田県出身。東京の大学を卒業後、在京の保険会社に入社した。十六年間勤務し、営業所長まで出世したところで、引き抜かれてホテルマンに転身。支配人として活躍した。信州とのかかわりは、ホテル建設の仕事で茅野市を訪れたのがきっかけ。その後、駒ケ根市の農事組合法人の幹部に誘われ、五年前に同市に住み付いた。「それまでは社への忠誠心だけでやってきた部分もあった。そんな環境から、離れてみたかったんです」。
 結婚したくても、できない人がたくさんいる−。駒ケ根に住んでみて、上伊那地方の結婚の現状に驚いた。「本人やその家族はもちろん、過疎化防止や地域活性化にとってもこの問題は深刻。商売になるかどうかは分からないけれど、何らかの形で社会奉仕ができれば」と会社設立に踏み切った。
 しかし、結婚相談のノウハウは何もない。それでも保険会社の営業力、ホテルマン時代に培ったサービス精神、農事組合での人脈を糧に、独自に方法を模索。本音を答えてもらうアンケート内容を考えたり、登録者の家まで足を運んだりと、できることは何でもした。二カ月に一度はパーティーも開いている。その努力もあり、現在の登録者は男女合わせて五十人ほど。上伊那地方以外の人も増えてきている。
 「この仕事は信用第一。そして信頼を得るためには結果が大切。誠実に仕事を積み重ねて、創立一周年の九月までに十組の結婚成立を目指したい。それが地域への奉仕につながると思う」。目標に向かっての奔走の日々が続く。そして最近、一組目の結婚にめどが立った。

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伊藤隆さん(諏訪市普門寺)不登校生支援の認定心理士
 「不登校の子供と接することで自分自身の殻も壊れ、彼らとともに少しずつ成長しています」。信大を卒業後、下諏訪町内の大手精密企業で十年間、人事・教育部門の業務を務めた後、一九九五年、不登校生らの心理相談と家庭教師として独立創業した。
 企業では大学で専攻した心理学を生かした業務だったが「『自分の力をもっと発揮できる土俵が別にある』とずっと感じていた。一度しかない人生なら本当にやりたいことをやろう」と決心。
 勉強と心の両面から子供をケアする指導スタイルは「多分、諏訪地方で初めて」といい現在、諏訪、伊那地方の小中学、高校生三十四人を指導する。
 心理学への興味、関心は学生時代に芽生えた。子供のころから人前での表現や自己主張が苦手な自分に劣等感を抱き、悩み追い詰めていた時に心理学を通して「客観的に自分を分析し、欠点を含めて自分を認められるようになり、その時から本当に自分を変えることができた」。
 不登校生は一様に「優しく、とてもデリケート。自信とともにプレッシャーも与え、精神的な強さを養うことが必要。そのさじ加減や、生徒とその家族の気持ちのずれを埋めることが難しい」という。駆け引きが通用しない子供たちを前に「自分の格好づけや飾りがとれたように思う」とも。
 昨秋には諏訪地方で二人目の、日本心理学会認定心理士の資格を取得。子供の不登校や中高年のストレス性の病気が増加する中、一層の技術・知識の習得とアプローチの多角化を研究して「日々、暇さえあれば学生みたいに勉強している」と笑う。「どこまで思いを遂げられるか分からない。だからこそ日々、充実できる。五十歳までには技術的にも事業としても確立したものにしたい」と意欲を一段と燃やしている。

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小林雄二さん(宮田村北割)使い捨て反省・リサイクル家具
 九年間勤めた東京のゲームソフト会社を昨年三月に脱サラ。両親の住む宮田村に移り、三カ月後、駒ケ根市赤穂中割で中古家具店「楽市楽坐」を開店した。工場跡を改修した約三百平方メートルの店内には、オフィス用の机やいす、家庭用ソファなど六百点以上が並んでいる。
 開店当初は赤字続きだった経営も、最近は利益が出るようになってきた。「人と自然に優しい仕事」をするのが目標。今の店が軌道に乗ったら、無農薬農業や料理研究、子供のころからの夢だった文筆家も目指してみたいと考えている。
 大学を卒業してアパレル関係の会社に就職したが、経営管理能力を評価されてゲームソフト会社に引き抜かれた。経営スケジュールの作成や海外事業所の立ち上げ、ソフト内容の外国語への翻訳など、あらゆる仕事を手掛けて会社の成長のために力を尽くしてきた。
 そして、世間では「不惑」と言われる四十歳。部長の地位と安定した収入を手に入れていたが、将来を考えた時に「このままでいいんだろうか」という疑問が浮かんできた。「一度きりの人生。自分の裁量で、好きなことをしてみたい」。突然の決意に初めは心配した家族も、納得してくれた。
 何をしようかも考えずに辞めてしまったが、漠然と「人や自然に優しい仕事」を探していた。「都会では大量消費、使い捨ての生活に浸っていた。その反省です」。あこがれていた田舎での生活。農業も考えたが、農業関係者に「食べていけない」と止められてリサイクルショップの経営に決めた。商売の経験もなかったが、「何とかなるさ」と開き直って新たな一歩を踏み出した。
 仕入れや宣伝、接客と、初めてづくしの仕事にもようやく慣れてきた。「以前と比べると経済的には確かに厳しい。でも、生活の満足感は全然違う。充実しています。脱サラはお勧めですよ」。

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安藤実さん(富士見町境広原)ペンション経営
 「子供のころから、山で仕事をしたいと思っていた」という安藤実さん(四六)が、富士見町境広原の富士見高原ペンションビレッジ内に「ジョナサン」を建てたのは一九八三(昭和五十八)年七月。十七年前のこと。東京の武蔵境駅前のイトーヨーカ堂で衣料品売り場に勤務していたが、職場結婚の妻直子さん(四二)と一緒に会社を辞め、同町で第二の人生をスタートさせた。
 日野市出身の安藤さんは、中学高校時代からSL撮影が趣味で、真冬の北海道など全国に撮影に出掛けていた。東京農大農学部卒業後は、大手新聞社関連会社でPR関係の仕事に従事したが退職。上高地帝国ホテルでのアルバイトを経験するなどしてイトーヨーカ堂に就職した。
 しかし、山への思いは捨て切れず、休日を利用して、直子さんと山梨、長野方面にドライブに出掛けながら次のステップを模索していた。そんな折り、同町の鉢巻道路を通りがかった際に偶然、「ペンション販売中」の看板を見つけ、その足で町役場を訪れた。
 安藤さんは当時、自己資金が三百万円しかなく、「全額借り入れは無理だろう」と半ば諦めていたが、役場の土地開発公社担当者は、そのまま農協融資係に安藤さんを連れて行き、数千万円の借り入れを即座に決定するという素早さで、「ペンション経営」が決まった。
 「当時、県企業局が開発し、公社が分譲していたペンション用地に買い手がつかず、町議会でも問題になっていたそうですが、そのためでしょう」と安藤さん。
 大きなリスクを抱えての出発だったが、安藤さんの人柄や、バブル期のペンションブームも追い風となり、客足は順調、収益は右肩上がりで伸び、当初の借り入れは昨年すべて返済した。
 今後は「自分の時間を大切にしたい」と、冬場平日の”オフ”を利用して全国の常連客宅を二人で回り、営業活動を兼ねた旅を楽しんでいる。北海道、九州にも出掛けるという。
 現在、インターネット上にホームページを開設しているが、ネット上の宣伝効果を実感。今後は「雑誌広告を縮小し、趣味にもっと重点を置きながら、富士見高原の自然を守る手助けもしていきたい」と話している。
http://www.root.or.jp/jonathan/

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