小津と野田の蓼科日記 来春公開

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「東京物語」など世界的な名作を数多く残した映画監督の小津安二郎監督(1903~63年)と脚本家の野田高梧(1893~1968年)が、茅野市蓼科高原で脚本を執筆した日々や、映画人や地域住民との交遊をつづった「蓼科日記」(全18巻)が複製されることになった。半世紀以上が経過して老朽化した原本の保存と複製の活用が目的。複製は来年春から公開し、希望者に閲覧してもらう計画だ。

小津監督は「東京物語」公開翌年の1954年8月、野田に誘われて初めて蓼科を訪れた。以来、63年12月に亡くなるまで、蓼科にあった野田の山荘「雲呼荘」に足しげく通い、2人で「早春」の構想をまとめ、「東京暮色」や「秋刀魚の味」など晩年の映画6本の脚本を書いた。

小津監督は最晩年、片倉家から借りた山荘を「無藝荘」と名付けて仕事場とし、蓼科に土地を買い、自らの山荘を建てる準備も進めていた。

蓼科日記はA5判クロス装のノートで雲呼荘に置かれ、来訪者に記述を求めた。小津監督が初めて蓼科に訪れた54年8月18日から始まり、野田が亡くなる68年9月23日まで続いた。野田の死後、雲呼荘は取り壊され、彼の妻・静が近くの山荘で日記を保管。同山荘は2016年に「新・雲呼荘 野田高梧記念蓼科シナリオ研究所」として開館し、同研究所が日記を継承した。

同研究所は蓼科日記の公開を検討したが、紙がもろく、鉛筆書きの文字が薄れる懸念もあり、やむを得ず断念。富士ゼロックス京都(京都市)が社会貢献活動で古文書の復元を手掛けていることを知り、今年3月に複製を依頼した。同社は、蓼科日記をデジタル保存して文字やスケッチ、写真、電報などを忠実に再現し、紙質や製本の技法も実物通りに復元するという。

蓼科日記をめぐっては13年、2人の脚本執筆に関わる部分をまとめた「蓼科日記抄」が松竹や遺族、地元関係者の尽力で刊行された。野田の孫にあたる同研究所の山内美智子代表理事と脚本家の渡辺千明さんは、「野田さんは小津さん亡き後も相変わらず若者を集めて蓼科を楽しんだ。全ての記録を読んでもらうことは野田さんが一番喜ぶことだと思う」と話す。

複製は年内にも完成する見通しで、冬季休館明けの大型連休ごろから同研究所で公開される。同研究所は複製事業への寄付を募っており、複製の名簿に寄付者の氏名を搭載する計画だ。詳細は同研究所のホームページへ。

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