「和田嶺合戦」の塩原彦七 自戦記見つかる

LINEで送る
Pocket

自宅で塩原彦七の自戦記を保管してきた子孫の塩原晴彦さん(左)と訳した大久保智弘さん(右)、価値を高く評価する伊藤文夫さん

江戸時代末期の高島藩用人で、水戸藩浪士「天狗党」との戦「和田嶺合戦」で軍師を務めた塩原彦七の子孫、塩原晴彦さん(73)=諏訪市=宅から、彦七が同合戦場で感じた恐怖心、感動、斬り合いの様子を詳細に書き残した漢文調の自戦記「自戦和嶺記」が発見された。彦七が生まれて初めて臨んだ実戦で感じた率直な気持ちがつづられている。県文化財保護協会理事の伊藤文夫さん(73)=諏訪市=によると、合戦で軍師を務めた彦七が「戦地において死への恐怖心を抱いていたという人間らしさ、戦場での殺し合いの生々しい場面がここまで細かく描写された資料はない。大変貴重」としている。

自戦記は合戦から約200日後、療養生活を送っていた際に天狗党の顛末を頼岳寺(茅野市)の霊道大和尚から聞き、投降した天狗党に対する幕府の対応について強く憤ったことから「子孫に残すため」に書き残した。

塩原さんが5年ほど前に自宅の仏壇の引き出しの中から発見し、その後、大切に保管してきたが、漢文のため、内容を正しく詳細に把握することができずにいた。そこで昨年春に友人で歴史小説家の大久保智弘さん(73)=東京都=に解読を依頼。記載された内容のすべてが155年の時を経て子孫の晴彦さんの前に明らかになった。大久保さんは「幕府に対するこれほど痛烈な批判はすごい。もし、当時、これが子孫以外の他人の目に触れたならば、本人はもちろん、高島藩も大変なことになっていただろう」と話した。

塩原晴彦さん宅で見つかった塩原彦七の「自戦和嶺記」

塩原晴彦さん宅で見つかった高島藩士、藩用人・塩原彦七の和田嶺合戦の自戦記。歴史小説家の大久保智弘さんの訳によると、戦場での天狗党による発砲について彦七は「賊軍は山上及び道の先頭から発砲してくる。飛び来る銃丸は雨の如く降り注ぐ。わが軍は皆胸壁に伏せ、敵に近づけない」と苦戦ぶりをつづっている。

戦況はその後、一進一退となったが、事態を変えたのは天狗党による奇襲攻撃。両者の正面衝突の間に天狗党の奇襲隊が険しい山をよじ登って高島、松本両藩連合軍側の背後と側面を突き、連合軍は総崩れとなった。絶壁の下にいた彦七は「頭上の敵勢に狙い撃ちされるのではないかと、肝は裂け、身は縮まる思いであった」などと恐怖心を赤裸々に語っている。

じりじりと迫る敵本隊を前に連合軍は退却するが、軍師・彦七は最後まで踏みとどまった。そこに、いったん退去しながら彦七を助けるために引き返してきた実兄の三男・山中和吉と実子次男・塩原友吉の若者2人の姿があり「流れ出る涙を払って彼らの勇志に感激した」。戦う勇気を得た彦七は「この白髪頭を賊どもにくれてやるわ」とやりを構えて敵陣近くまで深く入り、「敵を刺した」「喉首を貫いて敵を倒した」。不意に左肩を刺されてよろめくが、友吉が彦七に迫る敵の頭を刺した。夜になり、残った味方とともに助け合いながら帰路に就いた―。

合戦後の療養中に天狗党の顛末を知った彦七は、幕府軍を指揮し、天狗党の乱の鎮圧を任された若年寄、田沼意尊の戦に対する弱腰な姿勢と、投降後の天狗党浪士に対する手のひらを返したようなひどい処分に、「天狗党の勢い盛んな時は後方からのろのろと付いてゆき、形勢が変われば強権をふるう。この臆病さは幕政を握る身分にふさわしくない」と激しい怒りをぶつけている。

合戦前日には敵に塩を送る場面も書かれている。大久保さんは「塩原彦七の精神を端的に言えば、まさに武士道であり、ラストサムライ。天狗党との戦が心情と共に生々しく書かれており、諏訪地域のみならず、全国的にみても大変貴重な証言」と評価した。

先祖の思いに触れた塩原さんは「155年の時を経て子孫としてご先祖様の思いに触れることができた。感動したし、どこか親近感も覚えた。彦七が残した資料と記された思いを大切にしたい」と話していた。

おすすめ情報

PAGE TOP