考想・諏訪湖 6、岡谷蚕糸博物館長高林さん

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製糸業発展の歴史を語る高林さん

諏訪湖のほとりに位置する岡谷は明治時代から日本の生糸の一大生産地として発展し、最盛期には全国生産量の25%を占めるほどに。生糸は世界に輸出され、日本の外貨獲得にとって大きな力となった。なぜ、岡谷で製糸業が発展したのか。岡谷蚕糸博物館の高林千幸館長は多くの先人の努力に加え「諏訪湖や天竜川、流入河川など諏訪の水の力が『糸都岡谷』を支えた側面もある」と語る。

同館に併設する製糸工場の宮坂製糸所では今も女性従業員が糸を取る姿を間近で見ることができる。湯をためた鍋の中に浮かぶ繭から糸口を取り出し、自動回転する小枠(繰り枠)で巻き取っていく。長年、糸を取り続けている従業員の手さばきは、しばし見とれるほど美しい。高林館長は「製糸業には豊富な水が不可欠。岡谷に繭を煮るのに適した水があり、機械の動力源となる水車を回す川の流れがあったのは幸運だった」と語る。繭を煮るために使っていた諏訪湖や河川の水は、繭糸の主成分を粘着させているタンパク質セリシンを膨潤させるのに適していたという。天竜河畔に建つ製糸工場を写した写真には大きな水車が設置されている。

1870(明治3)年に前橋藩(群馬県)がイタリア式繰糸機を設置し、日本で初めて洋式技術を取り入れた製糸工場を開設した。72年には明治政府がフランス式を導入して造った官営工場富岡製糸場が操業開始。平野村(現岡谷市)では、フランス式とイタリア式の長所を取り入れ、機械に使われている鉄などの高価な材料を可能な限り木製に置き換えた「諏訪式繰糸機」が武居代次郎らによって開発された。鉄などを使っていた洋式に比べて木製の諏訪式は機械の製造コストが格段に安く、日本の風土や日本人の体格に合っていた。諏訪式の登場は採算割れで苦戦していた国内の製糸業に光をもたらし、岡谷の発展を支えた。

一方で製糸業の発展は諏訪湖への負荷を増大させた。市と蚕糸博物館が発行した「シルク岡谷製糸業の歴史」によると、工場数は1877(明治10)年に30カ所だったのが1930(昭和5)年には約7倍の214カ所に増えた。人口(現在の市域で換算)も1万1242人から約7倍の7万6562人に増加した。このうち女性工員は3万4583人で約45%を占める。工場や生産量、人口の増加と共に増えた産業排水や生活排水は諏訪湖や天竜川に流れ込んだ。

高林館長によると、全盛期の製糸工場には、排水に空気を送り込んで微生物に有機物の分解を促進させる設備や排水を大きなタンクにためて浮遊物を沈殿させた後、上部のきれいな水を流して下部の有機物を微生物に分解させる仕組みがあったという。現在のような環境基準などがない中、「諏訪湖や天竜川にきれいな水を流そうという意識が当時の製糸家たちの中にあったのでは」と語る。

日ごろ、諏訪湖畔をウオーキングする機会が多いという高林さん。製糸工場の煙突が建ち並ぶ岡谷の街並みは変わっても諏訪湖から望む里山や八ケ岳連峰の景色は今も昔も変わらない。

「多くの工女さんが休日に諏訪湖畔で時間を過ごし、友人同士で遊んだり、ふるさとの両親を思い出したりしたのでは」。そんな当時の岡谷の生活の一こまに思いを馳せながら歩く時間は高林さんにとっての大切なひと時という。

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